観光博覧会「牧野博士の新休日」は終了しました。
新キャンペーン「どっぷり高知旅」を開催中です。
第3回 第3回
『牧野博士って、どうして活躍できたの!?』
はい、まさに時代が彼を求めたからです!
植物って身近にあるけれど、実はあまり知らないし、専門的なことはちょっと苦手。。。
そんな方のために、高知県立牧野植物園の藤井聖子さんがわかりやすく、
植物にまつわる「へえ、そうなんだ!」を解説します。
植物分類学も西洋に追いつけ追い越せ!という時代
牧野博士が描いたムジナモの植物図(所蔵:高知県立牧野植物園)
牧野博士が描いたムジナモの植物図(所蔵:高知県立牧野植物園)
日本では明治期に近代化が進むまで、中国の本草学(ほんぞうがく)をもとに日本の植物を分類していました。 漢方薬に使われる薬用植物が日本のどれにあたるのか、中国の植物に照らし合わせていたのです。
「この植物は中国のこの植物に似ているが、成分や効能はどうな のか」という感じで。でも、日本にある植物のうち約40%が固有種。中国のものと一致し ないことも多かったことでしょう。その中で、日本独自の本草学が発展していきました。
西洋でも動植物や鉱物から人間の病気やケガを治療する薬を見つけて効能を知る、という東洋と同じ課題に取り組んでいましたが、18世紀半ば以降、そこからさらに発展。
地球上のすべての植物を認識し、まとまりを分類・整理し、世界共通の名称として「学名」をつけるという、近代の植物分類学が始まっていました。 19世紀後半の明治時代、欧米水準に追いつこうとあらゆる国家的な取り組みを重ねていた日本も、西洋の植物分類学にシフトしたのです。
植物分類学は比較の学問。標本や文献が圧倒的に足りなかった
明治10年、東京大学の創設とともに理学部植物学教室が設けられ、アメリカのコーネル大学で植物学を修めて帰国した矢田部良吉が初代教授に就任しました。
でも、日本はほんの少し前まで鎖国していたので、「さあ、やるぞ!」となっても研究資料が足りない。分類学は “比較の学問”。 植物同士を並べて見比べる標本や文献がないとできないんです。
自力で分類することができなかったため、東アジアの植物に造詣の深いロシアの植物学者・マキシモヴィッチ博士に鑑定を依頼していました。 しかしそれでは、これまでと同様、新種の発表は外国の研究者によって行われ、標本も外国に出てしまいます。 欧米列強の研究者に代わり、日本人が日本の植物を研究し新種を発表すべきとの機運が高まった時代でした。
矢田部教授をはじめ、松村任三、大久保三郎の両教員、初期の学生たちは、圧倒的に不足していた標本を蒐集するため、休日返上で日本全国を飛び回りました。
まだ鉄道網もろくに整備されていない頃に、3,000種類の標本を採集して日本における植物分類学の研究基盤を構築したのです。 そして、ようやく本格的な研究をスタートさせるその時に、「日本の植物を明らかにするぞ!」という同じ志を持った人物が、土佐からやってきた。 研究者も驚くような植物の知識をたずさえて。この人物こそが牧野富太郎だったのです。
日本の植物を明らかにする使命を持って生まれた牧野博士
稲毛で植物採集する牧野博士(提供:高知県立牧野植物園)
稲毛で植物採集する牧野博士(提供:高知県立牧野植物園)
裕福な酒蔵の跡取りとして生まれ、自然豊かな高知で多くの植物に触れて育った牧野博士。
江戸時代まで武家しか通えない藩校だった名教館で学び、知る喜びを得ました。 明治維新で廃校になるはずだったところを、これまでの歴史を惜しんだ地元・佐川の町人たちが存続させてくれたおかげで通うことができたのです。 その後も独学で植物知識を蓄え、上京のチャンスを得て、趣味だった植物の研究を生涯の仕事にすることができました。
もともとの素養、恵まれた環境、タイミングのよい時代の流れ、そして豊かな土佐の自然。 まるで、植物分類学者・牧野富太郎博士を育むお膳立てがなされていたかのようです。
牧野博士ご本人もおっしゃっていたように、日本の植物を明らかにする“使命”を持って生まれた人物だったんだと思います。
牧野博士のネットワークづくり
「世の中に雑草という草はない。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている」。
牧野博士がそうおっしゃったとおり、日本には名前(ここでは学名のこと)のない植物はほとんどありません。 牧野博士をはじめとする先人たちがたくさんの標本を採集して日本の植物を明らかにし、学名をつけてくれて、さまざまな図鑑、著作を残してくれたおかげで、 今の私たちは草花に親しみ、さらに研究を重ねることができています。これから新種が発見される可能性もあります。
ヤマトグサの雄花(提供:高知県立牧野植物園提供)
ヤマトグサの雄花(提供:高知県立牧野植物園)
牧野博士の功績の中で一番だと思うものは?と聞かれれば、私は「広く一般に、植物と触れ 合う楽しさと知識を啓蒙したこと」と答えるでしょう。
牧野博士は60代になると教育普及活動に力を入れ、全国各地の植物同好会や観察会に呼ばれて植物の調査・採集をしながら、行く先々で講師を務めました。 地域の皆さんと一緒にフィールドワークに出かけ、身近にある花の名前や特徴などを伝えることで植物愛好家を増やし、育てました。
それはある種のブームを巻き起こし、講習・講演会の依頼が絶えなかったそうです。“タレント学者”の走りだったのかもしれませんね。 牧野博士にもメリットがありました。
ファンが増えたことで、東京にいながら全国各地から珍しい植物の情報や標本が寄せられるようになりました。 こうした博士のネットワークづくりが、日本の植物学のレベルを大いに底上げしたと思っています。
牧野博士の原点は、絶えず山野に出て実地で植物を観察し「天然の教場」で学んだことにありました。 人生の後半は大学の中で研究するのではなく、在野の植物研究家や趣味家たちを天然の教場に連れ出し、植物のすばらしさを伝える道を選んだのです。
(東京植物同好会 提供:高知県立牧野植物園)
東京植物同好会の登戸採集会での記念写真。中央右に牧野博士。(提供:高知県立牧野植物園)
植物園の起源は、西洋の「薬草園」
前回の「植物分類学の研究ってどうして必要なの!?」でもお話ししましたが、植物分類学は、東洋・西洋を問わず、どんな植物が食べられるのか、薬草になるのか、 毒なのかを知り、生きていくために植物を識別することを起源として発展した学問です。
紀元前にはすでに中国やエジプト、ギリシャで有用植物を集めて栽培保存していたとされています。 西洋では修道院が病気の治療を行っており、薬用植物を集めた薬草園を営んでいました。 次第に規模が大きくなり、13世紀にローマ法王ニコラウス 3世によって薬用植物園としてバチカン植物園が造られました。
植物学研究のために作られた最初の植物園はイタリアのパドヴァ植物園(オルト・ボタニコ)。
今日ある近代の「植物園」の前身で、植物学研究を推し進め、広く情報を発信する目的や役割は、今も変わらず受け継がれています。

次回
「植物園とフラワーパークって何が違うの!?」

◆藤井聖子(ふじい・せいこ)
藤井聖子さん
1980(昭和55)年、大阪府枚方市生まれ。高知在住歴17年。
幼いころから自らの手で栽培するほどの植物好き。東京農業大学農学部農学科を卒業後、神戸大学大学院理学系研究科博士前期課程(理学修士)、 医療系メーカーを経て、2007年より牧野植物園に勤務。
栽培技術課で16年間、50周年記念庭園・土佐の植物生態園・牧野ゆかりの植物などの管理に携わり、 2022年9月から高知県内各地の地域観光を支援するため植物研究課草花活用支援専門員兼教育普及推進課ガイド解説員に。
樹木医、学芸員、自然観察指導員。
【牧野博士のようにフィールドワークを重ねたボランティアガイド】
ボランティアガイド
高知県では、観光博覧会「牧野博士の新休日」の取り組みとして、地域の植生や牧野博士のエピソードなどについて学べる「もっと草花を楽しむ講座」を開催しました。
県内各地の草花スポットや牧野博士ゆかりの地などを訪れる観光客の満足度を高めるため、観光ガイドや自治体職員、一般の県民を対象に、県東部、中部、西部の各エリアで実施。 講師を務めた牧野植物園アドバイザーの稲垣典年さん、同園の藤井聖子さんの指導のもとフィールドワークを重ね、植物の知識やガイドのノウハウを学びました。
ボランティアガイド
2023年2月から4月下旬にかけて、公益社団法人高知県森と緑の会が中心となって県内各地で桜の記念植樹を実施。 「飛行機で上から見下ろした時、桜の花の雲で埋まっているようにしたい」という牧野博士の思いを受け継ぐ取り組みです。