“桂浜観光”見逃されていた“土佐の鎌倉”まちあるき

龍馬で沸いた2010年の土佐路。そこには桂浜観光の通過点となり見逃されてきた長浜のまちがある。“知る人ぞ知る”まちのお宝を確認するため高知市の南部に広がる長浜を師走に旅してきました。
はりまや橋から桂浜方面におよそ7km。長浜地区は長宗我部の時代“土佐の鎌倉”と呼ばれ多くの史跡が残るまち。その史跡を歴史に基づき、いと面白く案内する地元の方がいるとの噂。早速お願いし行ってきました。

向かう足は(下の写真)高知県交通路線バス。はりまや橋から桂浜行に乗り所要時間20分。太平洋に近い長浜出張所前で下車し料金420円。ここから歩いて待ち合せの若宮八幡宮境内にある長宗我部元親公初陣像に。

着くとすでに“土佐鎌倉”の刺繍入り帽子を被る朝潮いや高砂親方を彷彿させる人の良さそうな“おんちゃん”が待っていてくれる。この方、この度の旅「親方案内人」と呼ばしていただこう。

『さあーこれから、初陣像を観て、若宮八幡宮→戸ノ本古戦場跡→雪蹊寺→秦神社→愛馬の碑→元親公墓所と約2.5kmの史跡を巡る観光。車で廻れば30分、今日は歩きぜよ』とまずは親方案内人の第一声。
続いて『このマップ、若宮八幡宮発行の「土佐のはた風」に示されている図。参考にしいや!』と手渡される。

ここで私は、素朴な疑問『どうして長浜を土佐の鎌倉というのだろう?』を問うてみる。すると焦るなと言わんばかりにおんちゃんは一言『後でゆうき』・・・と答えてくれない。(なかなか もったいをつける おんちゃんよ・・・・・・)
さてさて、長宗我部元親公初陣像から案内が始まる。
『この像は元親公初陣に臨み、若宮八幡宮の馬場に兵を集め必勝を祈願した古事により、元親公没400年を記念して平成11年に建立され、毎年初陣祭が5月末に行われている。像の高さは約7m、槍の長さ約5.8m、左手は像の足元に描かれた四国を掴もうとする構図ながぜよ』と。『あれ!説明板に5.7mと書いているのに?』と呟くと、すかさず『四国制覇の話ぜよ!!10cm、20cmはこんまいはなし、気にしなや』と流された。

像の廻りには馬防柵がある(下の写真)。長宗我部軍が長浜城を攻略後、浦戸城にたてこもった本山軍を封じるために築いたものを史実に基づき再現したもので、馬や兵の進入を防ぎ、鉄砲柵としても効力を発揮したそうである。また、柵の脇には戸次川の戦いで戦死した元親公の嫡男長宗我部信親と長宗我部軍700余名の名を刻む霊板のレプリカがある。豊臣秀吉の命で豊後(大分県)に出陣し、薩摩島津軍と戸次川で戦った際、薩摩の釣り野伏せ戦法に逢い、ひとたまりもなく大惨敗を喫した戦人達である。
『うーん薩摩は強い!実は私の妻も薩摩の女、よく分かる』と親方案内人・・・。

続いて若宮八幡宮本殿(下写真)へ。

参道の途中に土佐三大奇祭「どろんこ祭り」の神田がある。祭りでは、早乙女と称する土佐のはちきん達が田植えの神事を行った後、手桶に田の泥を入れ、顔に泥を塗ろうと男達を追いかける。泥を塗られた人はその年病気をしないといわれ、健康志向の私、次の機会はぜひとも塗られたい・・。(2011年の祭りは4月2日から3日間実施される予定)

八幡宮本殿は文治元年(1185年)源義経が壇の浦で平家を滅亡させた年に源頼朝公が創建したもので、祭神は応神天皇、神功皇后、宗像三女神である。
社殿は「勝ち虫」と言われる蜻蛉(トンボ)にちなみ、元親により出蜻蛉式に改められ、初陣のおりにも必勝を祈願している。
出陣に際して鳥居にいわれが残されている。それは、九州征伐の必勝祈願の際、鳥居の笠木に軍旗が触れ落下したそうである。不吉な出来事は現実となり九州戸次川の戦いで残敗したことから、帰国後にはこの鳥居を海に流してしまうのである。
以後280年、八幡宮は鳥居の無い神社となったが、幕末の大地震により鳥居の根石が浮きあがったことで、これは神の啓示とばかり慶び再び建立。現在の鳥居(下の写真)は4代目となっている。
鳥居をくぐると、左手の社務所に「元親公を大河ドラマに」との署名活動用紙が置かれていたので、賛同し署名をさせて頂いた。

八幡宮をあとに、元親公初陣の地に向け長浜川の南岸を西に歩く。この川は江戸時代初めに野中兼山により造られたもので、戦の時代、周辺は一面荒涼とした原野が広がっていたと思われる。数分歩くと戸ノ本住宅団地内の公園(写真左奥)に着き、その一角に戸ノ本古戦場跡を示す碑が建てられている。

ここでの戦いは長宗我部軍の兵糧を本山氏の兵が奪ったことから始まったとされ、その兵本山軍2,500。対する長宗我部軍1,000が、土佐物語による左図陣形で対峙。紀州雑賀の鉄砲隊を味方につけた長宗我部氏が勝利している。後年戦いの死者を葬ったとされる所に建てられたのが前記の碑で『古墳也勿毀』(コフンナリコボツナカレ)と刻まれている(下の写真)。
上の合戦図を手に親方案内人曰く『若宮八幡から海岸にかけての××印は先ほど説明した馬防柵ぜよ!』

元親公は、この1560年の戦いの後、姫若子から土佐の出来人と呼ばれるようになり、15年の歳月をかけて土佐の国を統一。さらに10年かけ四国の大部分を制覇するも豊臣秀吉の侵攻に遭い降伏。その後土佐一国の大名となり、豊臣の家臣とし2度の朝鮮の役にも出陣している。
強者どもの戦場を後に、長浜川南岸を戻るように東に下り雪蹊寺橋を北に渡ると四国霊場33番札所雪蹊寺の山門正面に着く。

雪蹊寺は820年頃弘法大師が開いたもので、寺の脇には豊後の戸次川の戦いで、長宗我部軍将兵700余名と共に22歳で討ち死にした元親公の嫡男信親の墓所(下写真)がある。墓所の周りには、現地で荼毘に付された信親の遺骨と共に持ち帰ったとされる梅の古木が数本配され、春には満開の花を咲かせ訪れる人々の目を楽しませている。この梅を雪蹊寺では「豊後梅」と名付け大切に育てている。
当初雪蹊寺は真言宗の高福寺であった。しかし、元親公が浦戸城に移った際に臨済宗に改宗したもので、元親公没後にその法号「雪蹊怒三」から高福山雪蹊寺と改名している。

山門を入りすぐ左に昭和の名僧と言われた玄峰老師の像がある。老師は太平洋戦争を早く終えるべく首相に手紙を出し「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・」の言葉を贈ったことで知られ、天皇のお言葉となり有名である。

また寺の霊宝殿(右写真)には、かの有名な仏師運慶の作の薬師如来を含め16体の国の重要文化財の仏像が納められ、その数は高知県の国重要文化財の5分1にあたり「知る人ぞ知る」である。

重文の説明を受け、この地の数多い文化に触れ感激していると、親方案内人はここぞとばかり当初の私の疑問に答えてくれた。『長宗我部の時代から長浜地区は、雪蹊寺を中心に政治・学問が盛んで神社仏閣が多く、南は海に面し文化香るがゆえに“土佐の鎌倉”と呼ばれたがぜよ』と。(うーん 納得!!)
雪蹊寺の東に隣接して建つ秦神社は、明治の初め廃仏稀釈により雪蹊寺が廃寺となったことで、雪蹊寺から戸次川の戦死者の信親公忠死御供衆鑑板や元親公座像、画像(国重要文化財)などを譲り受け、元親公の弟の子孫島重親らにより創建されたものである。

鳥居脇に長宗我部親の碑がある。昭和3年昭和天皇ご即位の当日、元親公に「正三位」の官位が追贈され、一族を代表して長宗我部親氏が受けた記念碑である。
神社から一歩出ると門前のまち並。雪蹊寺の目前で栄えた町、門前と書いて「もんじょ」と言う。(さすが土佐の鎌倉!いまだ由緒ある地名が残されている。)

ここから元親公墓所へは約1km。商店街の旧道を東に歩く中、道路北側にやもすると見逃しそうな鶴田塾跡の石碑。龍馬伝を見た観光客が行ってみたいとすぐ近くで尋ねることが多かったところだそう。ちなみに鶴田塾は幕末吉田東洋が塾を開き、明治時代に活躍した岩崎弥太郎や後藤象二郎達が育ったことが龍馬伝で報じられ一躍有名に。なお、その昔この地で元親公が鶴を飼っていたので鶴田塾と名付けられたとの説も・・(うわー ここでも長宗我部の匂い!)

塾を過ぎ右に折れると御倉橋(おくらばし)。この地は江戸時代土佐藩の米倉がありこの名が付けられている。倉は横幅50間(95m)奥行25間(48m)の大規模だったようで、今も行き交う船で賑わっていた風情をかもし出している。次に向かう愛馬の塚は元親公墓所のすぐ南にある。愛馬は戸次川の戦で乱戦の中、敗戦の濃い元親公に駆け寄り背に乗せ、府内(大分市)まで落ち延び元親公の命を救った「内記黒」。秀吉から降伏後に拝領したものである。塚に修理の跡(写真左上)が見えるが、数年前この塚に落雷があり割れたもので、地元では「塚になっても主人を守る」と話題になっている。

さて、いよいよ長浜の旅も大詰め、元親公の眠る墓所。うっそうと樹木の繁る天甫寺山の急勾配石段(左写真)を登り詰めるとそこは宝鏡印塔の墓所(下写真)。元親公は京伏見の館において61歳で病没し、京天竜寺で荼毘に付された後、ここ天甫寺山に眠っている。この地はなぜか「オラント」と呼ばれ、静かなたたずまい・・・。大晦日夜の紅白歌合戦。「私のお墓の前で泣かないでください、そこに私は居ません」と歌われていたが、この「オラント」は土佐弁で「居ません」の意味もある。さすれば長浜の人は400年もの昔から、この謎めいた地で、今日のヒット曲を歌っていたことになる。親方案内人曰く『どうぜよ』!!!

ここまで、歩き始めて2.5km・2時間半の旅。名調子の案内は疲れを感じさせない心地良さ。ここから東に2kmも行けば龍馬の待つ桂浜。路線バスで10分足らずとのこと。
「ここまでくれば桂浜も案内して頂けませんか?」と親方案内人に請うと・・ 『自分は長浜の案内人ぜよ!』と一言であっさり断られる。
「いごっそう」にも会えた高知観光の穴場「土佐の鎌倉」楽しい旅。
桂浜に急ぐあまり、帰りを急ぐあまり、見逃すにはあまりに“もったいない”長浜の旅でした。

写真は昨年の春、見事に花を咲かせた雪蹊寺の豊後梅。

今回の旅では、土佐の鎌倉長浜を歩く会さんが詳しく案内してくれました。興味のある方は下記の連絡先までお問い合わせください。

土佐の鎌倉長浜を歩く会
 住所:高知県高知市長浜3911
 電話:088-842-1025(FAX兼用)
 携帯:090-6283-4217

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