車で巡る「土佐の鎌倉」、長浜


高知市の南部地域、観光地桂浜の西側に隣接する長浜地区は、長宗我部の時代に「土佐の鎌倉」と呼ばれていた。はりまや橋から車で桂浜方面に約15分7kmの距離にある長浜に高知の穴場を探しに行って来ました。

長浜海岸から桂浜を望む

若宮八幡宮

長宗我部元親初陣像

馬防柵

若宮八幡宮参道脇に建つ元親公初陣像より出発。

この像は平成11年(1999年)に元親公没400年を記念して建立。左手で四国を掴む構図で造られる。高さ7m槍の長さ5.8m像と共に馬防柵も造られている。戸ノ本合戦後、浦戸城の本山勢を柵を造り包囲した。との史実に寄り再現している。


本殿に向かい参道を歩くと左に土佐三大奇祭のひとつ「どろんこ祭り」の神田。ここで早乙女達が田植をした後、田の泥を手桶に入れ男達の顔に泥を塗るために追いかける。泥を塗られた人達はその年病気をしないと言われている。豊作祈願の春祭り。神田祭り(かみだまつり)。


若宮八幡宮は1185年源頼朝公の創建。祭神は応神天皇。神功皇后。元親公は初陣の時必勝祈願した。勝ち虫のトンボにちなみ社殿を出蜻蛉式に建て替える。浦戸城の西に位置するので西ノ宮と称していた。


今も神社前に有る路線バスのバス停は西ノ宮である。


鳥居には言われが有る。九州へ出陣の必勝祈願のおり軍旗が鳥居の笠木に掛り落下した。豊後戸次川の戦いで嫡男信親が戦死する大惨敗をした。帰国後この不吉な鳥居を海に流す。以来280年鳥居の無い神社で有った。幕末の地震で根石が浮き出た。氏子達は神の思し召しと慶び再建した。現在、鳥居は昭和55年(1980年)に建てられた4代目。

八幡宮を西に車を走らすと浄土真宗正福寺が有る。そのまま西に行き角を曲がると浄土真宗本願寺派の広願寺。両寺院とも本尊は阿弥陀如来。

正福寺

広願寺

北に向かうと草野姫神社 創建時期不詳だが地域の農耕神大切に守られている。祭神は草野姫の命と言はれている。

草野姫神社

神社から北向うと右手(東側)に市営戸ノ本団地が有り公園の一角に「古墳也勿毀」の碑が建つ。戦い当時に長浜川は無く荒涼とした原野であった。

元親初陣の地 戸ノ本古戦場跡。長宗我部氏が種崎城に送った兵量米を本山氏の兵が奪い怒った長宗我部氏と戦に成る。本山軍の長浜城に夜襲をかけ城を奪う。朝倉城から応援と合わせ2500人の軍勢に対し元親軍は1000人。紀州雑賀衆の鉄砲隊の応援も有り元親軍が勝利する。この戦(1560)の後姫若子から土佐の出来人と呼ばれる。戦の犠牲者を葬る場所に後年この碑を建てる。「古墳也勿毀」(コフンナリコボツナカレ)元親公はその後15年掛け1575年に土佐を統一した。織田信長と同盟し四国制覇を目指して拠点を阿波白地城(徳島県三好市)に置く。その後信長は元親の四国制覇を喜ばず対立する。元親は宗教勢力や地元豪族を味方に付け三カ国を攻め統一目前に信長の後継者に成った豊臣秀吉の侵攻を受け降伏。秀吉の臣下として土佐1国の大名に成り薩摩島津氏、関東北条氏、二度の朝鮮の役と戦う。碑を過ぎて長浜川南岸を西に行くと大きな木の下に小さな祠が祭られている。戸ノ本合戦の戦死者を葬と地元では昔から伝えている(下の写真)。

長浜城祉、城山

長浜城址。戸ノ本古戦場より見る。山麓に雪蹊寺、秦神社が建っている。

長浜川北岸を西に行くと江戸時代初め土佐藩家老野中兼山が難工事の末完成させた唐戸の切り抜きがある。高さ30mの岩山を長さ100mに渡り堀抜く大工事。仁淀川の水を東の浦戸湾に通して流域の耕地面積を増やし米の増産を図る。水路が出来た事により水運が盛んに成り長浜地区は物流拠点として発展した。「2級河川新川川」長浜では長浜川と呼ぶ。

唐戸の切り抜き

川の北側に建つ記念の碑

唐戸の切り抜きより長浜川北岸を東に雪蹊寺を目指して行くと左に日出野地区が有る。797年完成の続日本記によると奈良時代(723)年聖武天皇の后光明皇后が病人や貧しい人達を救う施設、悲田院を国中に造る。土佐国に幡多郡と吾川郡長浜村に造ると書かれている。場所は特定されていないが地区が「ひでんいん」の有る所から(ひいでの)と呼ぶと伝わる。

日出野の地主神社

四国33番札所雪蹊寺は弘法大師により820年頃開かれる。当初は真言宗、鎌倉時代慶運寺、長宗我部元親公の菩提寺に成り元親公の法名「雪蹊怒三」により雪蹊寺。と3度寺名を変えている。

山門を入ると左に昭和の名僧玄峰老師の胸像。雪蹊寺の住職も務めた老師は戦争を早く終わる様に昭和20年終戦の詔にある「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」の文言を時の鈴木首相に送る。

玄峰老師像

本堂の奥に九州戸次川の戦いで薩摩島津軍に敗れ戦死した長宗我部信親の墓所が有る。

長宗我部信親の墓所

御本尊を収める霊宝殿には鎌倉時代の仏師運慶作薬師如来を含め国の重要文化財16体収められている。庭園に信親の遺骸と共に持ち帰った梅の木を「豊後梅」と呼び大切に育てている。元親公の時代雪渓寺を中心に学問が盛んに成り神社仏閣も多く三方を山で囲まれ南は海に面おり地形的にも似ているので土佐の鎌倉と呼ぶ。

庭園の豊後梅

霊宝殿

雪蹊寺の東隣に建つ秦神社は長宗我部氏の菩提寺の雪蹊寺が明治3年廃仏稀釈により廃寺になったため、雪渓寺に安置されていた元親公の木像、肖像画(国の重要文化財)戸次川の戦いで戦死した信親公と700余名の大位牌を譲り受け創建された。「秦」の名は長宗我部氏が秦の始皇帝の末裔と称していた為。祭神は長宗我部元親公、秦家代々の霊。

秦神社

鳥居を入ると右手に長宗我部親の碑が有る。昭和3年11月昭和天皇ご即位の当日、元親公に「正三位」の官位が追贈された。一族を代表して長宗我部親が受けた。

長宗我部親の碑

秦神社を出て商店街を東に行くと駐車場の横に鶴田塾跡の碑。塾は幕末に吉田東洋が開き明治時代に活躍した後藤象二郎や三菱財閥を起こした岩崎弥太郎達を育てた。地元ではこの地を吉田屋敷と呼んでいる。長宗我部時代この地で元親公が鶴を飼っていたので鶴田塾と命名する。

長浜の町並み

鶴田塾跡碑

鶴田塾を東に塩谷(しおや)地区に建つ宇賀神社は元慶3年(880)年陽成天皇に寄り従五位下に叙位された。県下叙位された13社の一つとして有名。

北の塩谷地区と南地地区をつなぐ御倉橋。江戸時代に土佐藩の米倉がこの地に有ったので御倉橋と呼ぶ。現在の橋は昭和10年に掛け替える。御倉橋から川を見ると、この水辺は浦戸湾十景の一つ長浜川桜並木と呼ばれたが今はコンクリートの護岸に。

御倉橋から長浜川を見る。

御倉橋

御倉橋を過ぎ桂浜方面の行くと車の左手に天甫寺山が見えてきて長宗我部元親の墓の案内板がある。

天甫寺山

案内板を入ると左に愛馬の塚。豊臣秀吉拝領の馬「内記黒」の墓。内記黒は薩摩との戸次川の戦いで乱戦の中、死を覚悟した元親公もとに駆け寄り救いだした。
数年前に落雷が有り碑が破損しその修理の跡が有る。地元では400年後も主人を守ると話題に成っている。

愛馬の塚

うっそうとした木々が茂る天甫寺山の中腹に元親公の墓所がある。上りの石段左に兵士の塚。

墓所入口

登り口左の兵士の塚

石段を登ると玉垣に囲まれた宝鏡印塔の墓所。元親公は1599年京伏見の館で病没61歳。天竜寺で荼毘に付され長宗我部盛親によりこの地に葬られた。官位「従四位下宮内少輔」。
この地は「オラント」と呼ばれ淋しい所であり「夜に馬の首が飛で来る」。と「オラント」とは土佐弁で「居ない」の意味。元親公はここに居ない。(おらんと)か?元親公お墓の入れ替わり説も古くから地元に伝わる。謎めいた地名にパワースポットを感じた。

墓所に上る石段

長宗我部元親公の墓

約4km、1時間ほどの小さな旅でした。ここまで来たので2km東の桂浜に行き桂浜の龍馬さんに逢って旅を終わりにした。

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