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幕末の土佐勤王党志士であり天誅組総裁、吉村虎太郎をおっかけて早十数年。彼の出身地、津野町大好き!年に一度は訪れないと気分モヤモヤ。いっそ住みたい!

津野山文化にふれる旅 神楽と天誅組の志士たち  [2009年12月01日(火) ]
 坂本龍馬をご存知だろうか。
 そう聞くと、ほとんどの人が「何を言っているんだ、当たり前じゃないか」と返答するに違いない。
 では、吉村虎太郎をご存知かと聞けばどうだろう。
 吉村虎太郎は、龍馬と同じく土佐勤王党に属し、しかも龍馬より早く脱藩した。
 つまりは、土佐脱藩第一号なのである。
 今回は、その吉村虎太郎の故郷、高知県高岡郡津野町を、両親と子供を連れて訪ねた。

 吉村虎太郎は武市半平太が止めるのを振り切って脱藩、のちに天誅組を結成し奈良の地で武力倒幕のさきがけとなって散る。
 私の住むこの奈良県で、である。そういう繋がりもあってか、私は龍馬よりも吉村虎太郎に惹かれた。
 以来十数年、吉村虎太郎と天誅組を追いかけている。

 津野町は私にとって年に一度は必ず訪れる土地であり、特別な愛着がある。
 吉村虎太郎はじめ、宮地宜蔵、千屋兄弟、松山深蔵、上岡胆治といった幕末の志士達を排出した土地であり、龍馬が脱藩する際に通った道も残されている。
 来年は「土佐・龍馬であい博」が開催され西隣の梼原町がサテライト会場になっているが、出かけようというかたは、ぜひ津野町へもお立ち寄りいただきたい。    
 いつもは今年9歳になる長男との二人旅だが、今回は初めて両親を案内した。

 午前4時。奈良を出発し、瀬戸大橋経由で四国入りをする。
 須崎東インターで降りると、津野町までは国道197号線を約1時間。
 進むに連れて四国山地の壮大な山々が眼前に迫り、てっぺんの20基もの真白い風車が美しく見えてくる。

 午前10時、国道沿いの「風車の駅」に到着し遅めの朝食。
 ここは農産物・土産物直売所であり地元の新鮮食材を使った食事が楽しめる。
 パンもコーヒーもそこらの喫茶店よりはるかに美味しいが、イチ押しはなんといっても土佐ジローのゆで卵だ。

 もうひとつ、休憩地点としておすすめなのが「道の駅布施ヶ坂」である。
 道の駅自体は全国どこにでもあるものと同様変わりないが、国道を挟んで向かいに休憩できる広場と、長い滑り台があるのがいい。
 ここから眺める山々の景色は素晴らしいし、滑り台はとにかく長い。
 子供連れの家族が休憩し遊ぶのにぴったりだ。
 ただ軽快に滑ったあと、階段を延々と登ってこなければならないのが、車移動ばかりの運動不足にこたえる。



四万十川の源流点

 津野町はその面積の9割が山林という町である。
 東津野村・葉山村というふたつの村が平成17年に合併して津野町となった。
 人口約7000人。
 四国山脈の山々と川が非常に美しい。

 不入山(いらずやま)の中ほどに四万十川の源流点があり、そこからの水が町内を潤し、太平洋までの全長196キロを流れていくのである。

 源流点へは比較的簡単に行くことが出来る。国道に案内板が出ているので、それに従って船戸地区を抜け、車一台分の幅しかない道をひたすら登っていく。
 車で行けるところまで行ったら、あとは徒歩だ。
 苔むした大木の間を登り清流の間にのぞく岩を伝い、約20分歩くと源流点に到着する。
 68歳の父が一番元気に山道を登っていった。



 澄み切った水は驚くほど冷たい。
 以前、津野町で一番古くからの知り合いであるK氏に案内して頂いたとき、オオサンショウウオの子供を見せてくださったことがあったが、今回見つけることは出来なかった。



津野山郷とは

 先に述べたように、ここ津野町は多くの偉人たちを輩出した土地である。
 津野町を中心にこの辺り一帯を昔、津野山郷といった。
 平安時代に京から伊予に流された藤原経高(つねたか)が津野山郷に移り住み、土地と自らの名を津野と変え、徐々にこの山間の地を切り開いていった。
 経高はどういうわけで遠国へ流されたのか定かではない。
 彼の父は藤原仲平で、大納言・左右大臣等を務め、大宰府天満宮の社殿造営を行った人物。母は三十六歌仙のひとりで恋愛話にことかかなかった伊勢。

 華やかな宮廷絵巻の中で生まれ育った経高は、流されて津野山郷に居を定めて以後、伊予から三嶋神社を勧請すると同時に、この地に神楽を伝えたといわれる。

 神楽のことは後ほど紹介するとして、経高以後も代々の津野氏によって高い文化教養が奨励されてきたこの地は、長宗我部−山内という時代の流れに呑み込まれながらも、独特の気質や津野山文化が根付き息づいてきたといえよう。
 それは多くの偉人たちを生み出し、幕末期には尊王思想の土壌になった。

 まず紹介したいのは室町時代の高僧として名をはせた義堂・絶海である。



 義堂周信(ぎどうしゅうしん)は1315年に船戸で生まれた。夢窓疎石の弟子になり、京都五山に禅宗や漢文学を学び、ときの将軍足利義満の教師役をも担った。

 絶海中津(ぜっかいちゅうしん)は1336年、同じく船戸生まれである。夢窓疎石の弟子となって建仁寺に入り、のちに明に渡って初代皇帝、洪武帝に謁見を許されたほどである。二人は五山文学の双璧と称えられた。

 天龍寺の慈済院には絶海国師の木像が安置され、法要には常に津野町の人々も出席してきたという話である。特に昨年は没後600年にあたり、法要が盛大に営まれたという。

 津野町役場の左手に、片岡直輝(なおてる)・直温(なおはる)の記念碑がある。
 直輝は明治から大正にかけて関西実業家として活躍した人物で、大阪瓦斯社長をはじめ阪堺・南海・阪神各電鉄会社社長等を歴任し、関西財界の長老といわれた。晩年は貴族院議員に勅選せられている。

 弟の直温は日本生命保険会社の設立に参画し、その2代目社長をつとめた。のち衆議院議員に当選し商工大臣・大蔵大臣を歴任。昭和5年、貴族院議員に勅選せられた。
 この片岡兄弟の父は孫五郎といい、土佐勤王党のひとりとして活躍、脱藩する同志達の支援をも行った人物である。


神とあそぶ神楽

 さて、神楽である。
 津野経高が神話を劇化したものを神楽として伝えたのがはじまりとされ、五穀豊穣・無病息災を祈願するとともに「土一期(つちいちご)」といわれる願掛けをする。
 土一期の土は天地・地球を意味し、「地球のある限り神楽は絶やしませぬ、どうか我々をお守りください」という祈りだという。
 津野町の神楽は「津野山古式神楽」といい、国の重要無形民俗文化財に指定されている。 神話を劇化・戯曲化した17の舞を舞う、神と人との祭りである。
 普段の各地区の秋祭りでは17つのうちいくつかを選んで奉納するらしいが、21日の今日は、郷地区の河内五社神社で全ての舞を奉納する8時間の通し神楽を行う、ということで、既に昼過ぎになってしまったが神社へ急いだ。
 神社に幟が沢山はためき、太鼓の音が響いてくる。
 中は沢山の人が座っており、外にも人が溢れている。
 K氏がいのしし汁の振る舞いを持ってきてくださり、それを頂きながら神楽を見た。

 神前に設けられた舞殿では、ちょうど「山探し」という舞が始まったところだ。



 これは、金山彦神の使い神である山探しが、紛失した宝剣を捜し求め見つけるというストーリーになっている。
 鬼のような面をつけて始めは憂いと怒りを込めて舞い、最後は二振りの剣をもって喜びを表す、ダイナミックな舞のひとつである。

 子供が一番楽しんでみていたのが「恵比寿舞」。
 恵比寿神の鯛釣という神話がもとになっており、恵比寿神のもつ釣竿に観客が紙幣や米の袋などを結びつけ、恵比寿神と観客が引っ張り合うのに皆でどっと笑った。
 とにかくこの津野山古式神楽は、太鼓もリズムが早く軽快で明るい。




 途中で父が神社を出て付近をぶらぶらしていたらしい。小さい子供とおじいちゃんが軽トラのそばで話している。
「じいちゃん、トラックの荷台に乗りたい!」
「やめとけ、いのししの血がついちょるき。」
 人々は、神楽同様明るくておおらかだ。

 夕方5時、長い神楽の奉納が終わり、宿へと向かう。
 今日のお宿は四国山地のてっぺん、「高原ふれあいの家 天狗荘」。
 標高約1400メートル。
 眼下に山また山の壮大な景色が広がる。
 晴れた日には西方に足摺岬、東方には室戸岬が見えるらしいが、残念ながら既に日が暮れてきて見ることはできなかった。



 施設自体は新しいとはいえないが、清潔だし働いている人も明るくて親切だ。
 外の駐車場はもとより、館内の廊下にまで愛媛県と高知県の県境の線が引いてあるのが面白い。
 夕食は、カルスト牛に四万十源流のアマゴの塩焼き、地鶏のたたきに山菜やてんぷらなど盛り沢山で、どれも大変美味しく頂いた。
 夜、外に出ると満天の星空である。これもこの地ならではの醍醐味であろう。
 早朝は気象があえば雲海を見ることができるが、今回はあいにくの天気になってしまった。


四国カルスト

 二日目。
 四国カルストの間を縫うように走る道路。
 今にも雨の降りそうな曇天で、寒い。
 右に愛媛県を、左に高知県を見下ろしながら県境の道をくねくね行くと、風車がゆっくりと廻り牛がのんびりと草を食んでいる。
 地芳峠から梼原町へと下り、町の中心部少し手前の三嶋神社に立ち寄る。
 梼原川にかかる橋が屋根つきなのが珍しい。
 境内左側、山の中へと続く道には、「坂本龍馬脱藩の道」の看板。
 虎太郎・龍馬や多くの志士達は、津野町から梼原を通り西へと抜け、脱藩していったのだ。




津野山の人々の心

 休憩は太郎川公園。ここには道の駅ゆすはら・レストラン・ホテル・温泉もある。
 その名も「雲の上ホテル」。時間がないので、そこそこで出発。
 そして司馬遼太郎氏が絶賛したという梼原の千枚田を見る。氏は非常に感動し「万里の長城よりも素晴らしい」と評したとか。

 千枚田を見下ろす高台横に、お茶堂がある。茅葺の小さな建物だ。
 津野町や梼原町をめぐっていると、しばしば目にする。



 お茶堂は藩政時代から、旅人たちに村の人がお茶の接待をする場所だった。旅人との交流や道中の安全祈願のために当番制でつめ、茶や菓子でもてなしたという。
 その風習は時代とともに消えていったが、以前、K氏にこのことを聞いたとき、K氏は胸を張ってこう言った。
「お茶堂は布施の精神です。」


津野山郷の志士達

 国道197号線を東へと向かい、再び津野町へ舞い戻る。
 天誅組にちなんでつけられた天忠トンネルを抜け、北川地区のソフトクリーム屋さん「You Farm」に立ち寄る。
 ここのソフトクリームやプリンは添加物を一切使わず、絞りたて牛乳で作ってある。ここは絶対外せない。

 この北川地区は、吉村虎太郎が最初に庄屋として赴任した場所であり、義兄の上岡胆治や松山深蔵らが住んでいた。

 上岡胆治は医者を営んでいた。彼は華岡青洲の愛弟子、鎌田桂州の弟子となって医学を学び、外科を得意としたといわれる。胆治の妻は吉村虎太郎の姉、光。
 胆治も虎太郎と同じく土佐勤王党に加盟して活動していたが脱藩。
 長州へ赴き、忠勇隊副隊長として禁門の変で戦ったが負傷し、鷹司邸で自刃した。

 松山深蔵は庄屋の次男。医者を志し、大坂で緒方洪庵の義弟、郁蔵に師事。
 土佐勤王党に加盟して奔走するうち、同志千屋(ちや)菊次郎と脱藩する。
 禁門の変で忠勇隊隊長として奮戦したが、敗れて真木和泉らと天王山で自害。
 ちなみに千屋金策・菊次郎の兄弟も同町出身で、葉山小学校裏手に顕彰碑がある。


人と自然の共存

 車の窓から外を眺めていた母が不意に言う。
「ここの川はどこも護岸工事がされてなくて、自然でええなあ。」
 そう、津野町の川は、そのほとんどが人工的なもののない自然そのままだ。



 かつてはこの地でも護岸工事が施され、トンネルの入り口や道路脇の山の斜面はコンクリートで固められてきた時期があった。
 それが変わってきたのは、K氏が近自然工法を提唱してからだ。
 既にコンクリートで固められた護岸には、生き物達が川に降りてこられるような道をつくり、川の中に岩を配置して流れを変え、魚の住処をつくる。
 自然の営みを考えながら地域の環境や暮らしにあうように川を管理していくということだ。
 K氏はかつてスイスでそれを学び、高知に取り入れた、近自然工法の先駆者である。
 また障害者の就労支援事業所「どんぐり農園グリューネ」を立ち上げ、どんぐりの苗木を育てている。トンネル入り口の斜面などに苗木を植え、人工的なものを使わずに斜面を強化すると同時に森を守っていくのだ。
 その土地の植物形態を守りながら、生物の住みやすい自然環境保全と、障害者支援事業に同時に取り組んでおられるK氏は、地元を愛する事このうえない、津野山人なのである。


天誅組総裁 吉村虎太郎

 いよいよ吉村虎太郎像との対面である。
 場所は津野町役場西庁舎裏手。



 彼は「明治維新のさきがけ」といわれる天誅組の総裁となり、39名の同志達とともに、天皇の大和行幸の露払いとして大和五條入りをした。
 幕府の出先機関である代官所を襲撃して土地を平定し、行幸を迎える準備をしたまではいいが、翌日になって朝廷内で薩摩・会津による政変が起こり行幸は中止され、天誅組は行動の大義名分を失ってしまう。
 賊軍とされ幕府から追討軍を差し向けられたとき、彼らは幕府軍と戦う決意をする。

「倒幕倒幕と皆言うが、未だ誰も実行してはいない。我々が今、幕府軍と戦って武力倒幕の道を切り開いてみせよう。たとえここで倒れたとしても後に続く者がいる。そのためにやるのだ。」
 天誅組は約40日間にわたって数万の幕府軍を相手に戦い、壊滅した。

 津野山郷という独自の文化を有する地で生まれ育った吉村虎太郎は、土佐を真っ先に脱藩し、その一年半後、時代の捨石となって奈良は東吉野村で幕府軍に討たれて死んだのである。
 天誅組のこの戦い以後、世の中は武力倒幕へと方向を転じ、4年後、明治維新がなった。

 義堂・絶海や片岡兄弟、吉村虎太郎はじめここでは紹介しきれなかった志士達、またK氏をはじめ今の津野の人々には、津野経高がもたらし1000年以上にわたって育まれてきた津野山郷の文化・精神が脈々と受け継がれている。


羽根町の碑

 昼過ぎ、津野町をあとにする。
 今回の旅は、19名の土佐出身の天誅組隊士の中でも島村省吾という人物の碑を見たくて、少々無謀な二日目の予定を組んだ。
 今からの行き先は室戸市羽根町である。
 昼前からずっと雨が降っている。
 高速道路を南国インターで降り、国道55号線に出ると海沿いの道ひた走る。
 予想以上に移動に時間をとられ、奈半利町で野根山二十三士のお墓参りをしたかったが、仕方なく次回に見送った。

 島村省吾。
 土佐藩士である。
 若い頃に京都や江戸に出て学び、特に砲術の才能を発揮したという。一度脱藩したがのち許されて藩吏に登用されたというから優れた人物だったのだろう。
 国事周旋の役を担っていたが、天誅組の決起に参加した。
 追討軍に追われて奈良の南部を敗走し、今の東吉野村で同志の多くが倒れ殆ど壊滅状態になったとき、かろうじて逃れてとある民家に潜伏した。
 しかし翌日、和歌山藩兵に包囲されて捕われる。各地で捕えられた同志達とともに京都六角獄舎へ送られ処刑された。
 彼はこのとき二十歳だった。
 のちに正五位を贈位されている。




 場所は国道55号線沿い、羽根町の農協ガソリンスタンドの向かいである。
 これだけのために午後の時間の全てを使ってしまったが、念願の碑を拝することが出来たことは感慨無量である。

 今日のお宿は夜須町の「海辺の果樹園」。
 羽根町から1時間も戻らなければならない。宿へついたころにはすっかり日が暮れてしまった。
 リゾートホテルと銘打つだけあって、なかなかに素敵なところである。
 部屋はメゾネットタイプで一階が和室、二階にはベッドが二つあってとても広い。
 ベランダからは高知市内の明かりが海を隔てて美しく見える。
 夕食は鉢皿料理。新鮮な金目鯛の刺身に鰹のたたきなど、海の幸がたいへん美味しい。
 女性風呂には薔薇の花が沢山浮かべてあって、ゆっくりと疲れを癒した。


最後に

 三日目は昨日とうってかわって雲ひとつない晴天。
 「道の駅やす」に立ち寄り、子供と砂浜で遊ぶ。
 海の水も砂浜も綺麗だ。
 土佐くろしお鉄道やす駅が目の前にあり、一両だけのかわいい電車が時々、ガタゴトやってくる。

 午前10時、名残はつきねど我が家へ向かって出発。

 今回、津野町と天誅組総裁吉村虎太郎はじめ勤王党志士達の史跡、四国山地の自然とを両親に見せることが出来た。
 両親は、はじめて見る四国山地の上から眺める壮大な風景に感動し、神楽も含めて津野町という高知県の中のごく小さな町そのものが気に入ってくれたらしい。

 この旅レポートを読んでくれた人が、津野町へ行ってみようと思って頂けたら大変うれしいし、龍馬だけでなく、吉村虎太郎に目を向けて頂けたらこれに勝る喜びはない。

 最後に、吉村虎太郎ら天誅組の決起精神にふれておきたい。
 彼らは決起の際に14項目からなる軍令を決め、それを誇りとした。その中でも有名な一文が、これである。
「一心公平無私、土地を得ては天朝に帰し、功あらば神徳に属し、功を私することあるべからず」。
 幕末、脱藩していった土佐勤王党の志士達は、天誅組として奈良に散り、あるいは忠勇隊として天王山で散った。皆が無私の心で、あの激動の時代を熱く駆け抜けた。
  すさんだ事件が後を絶たない昨今、この「一心公平無私」の精神こそ、彼らから学ばなければならない。

 この旅行中何事もなく、無事に帰宅出来たことを津野山郷の神々に感謝するとともに、旅先で出会った全ての人々に謝意を申し上げ、筆をおく。
 


旅の行程 
 1日目 
奈良−瀬戸大橋−須崎IC−津野町−風車の駅−片岡兄弟顕彰碑−道の駅布施ヶ坂−千屋兄弟顕彰墓−義堂・絶海銅像−四万十川源流点−河内五社神社(神楽)−天狗荘

 2日目 
四国カルスト−梼原町−三嶋神社−道の駅ゆすはら−千枚田−You Farm−上岡胆治邸跡−松山深蔵誕生地−吉村虎太郎銅像−須崎IC−南国IC−室戸市羽根町−島村省吾顕彰碑−夜須町・海辺の果樹園

 3日目 
道の駅やす−道の駅南国風良里−南国IC−明石海峡大橋−帰宅
  Posted at 22:03 | | この記事のURL | コメント(0)
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